第1章 お好み焼きとはいかなる食べ物であるか
お好み焼きが、近年急激に発展中であるとはいえ、お好み焼きそのものは古く江戸時代から原形がある。そして、戦前の一銭洋食、もんじゃ焼きを含めての変換をたどれば、決して新しいものではないことがわかる。何故、その古くからある大衆的でなじみの深いお好み焼きが、新時代と騒がれるほどの注目を集めるのか、その歴史から触れてみようと思う。
お好み焼きの起源は、残念ながら定かではない。江戸時代に「麩焼き」と呼ばれていた一種のお菓子が起源として最も有力だといわれている。この「麩焼き」は、小麦粉を水で溶いたものを焼いて、味噌をつけて食べたもので、当時は彼岸時に作られる特別なお菓子であった。
明治時代になると、味噌を入れるかわりに甘いあんこを巻いた「助惣焼き」が大流行した。この頃に、ほんの十数年前まで言われ続けた「女子供のスナック=お好み焼き」の原点を見ることができる。
ところが、おやつとしての食べ物が、大正12(1923)を境に主食代わりにまでのし上がる。関東大震災だ。水っぽい、しゃばしゃばした感覚の「もんじゃ焼き」の発展もそのひとつである。小麦粉の量が少なくてすみ、鉄板さえあれば子供でも作って食べることができる「もんじゃ焼き」は関東を中心に広がっていった。
一方、大阪ではコンニャクや豆等を入れた「チョボ焼き」と呼ばれる食べ物が、庶民の家でよく焼かれていた。同時に明治から大正にかけて関西、広島では「一銭洋食」が大流行した。「一銭洋食」はソースを使っていたところから「洋食焼き」とも呼ばれており、一銭玉を持って駄菓子屋のおばさんに焼いてもらって、子供たちがおやつがわりに食べていた。現在、京都の「壱銭洋食」では牛肉や卵など、具を充実させ大好評を得ている。ただし、値段は一銭ではなく600円(1990現在)だが。
この頃から昭和初期にかけて、関西を中心にお好み焼きが確立され始める。「お好み焼き」と命名されたのは昭和10(1935)年頃。卵や肉が入り始め、店も増え始めるのもこの頃である。
もんじゃ焼きやお好み焼きが普及した背景に、芸者衆の姿を見ることができる。お座敷で旦那たちが芸者とお好み焼きを焼く。また、芸者衆と遊んだ後みんなを引き連れてお好み焼き店に立ち寄るなどである。
お好み焼きが本格的な食産業として発展するのは、第2次世界大戦後で、半世紀も経っていない。発展の源は、大阪を中心に関西である。戦前からどちらかといえば、西高東低のお好み焼きではあったが、関西と関東の間に大きな差異がひとつみられる。それは商品の提供方法である。関東の「もんじゃ焼き」は文字が書けるほど、あるいは文字を書きながら焼くといわれるうすい生地を、駄菓子屋の隅で子供たちが焼きながら食べていた。つまり、客サイドで焼いて食べるセルフスタイルの原点がここにある。一方関西では店サイドで焼いて提供するスタイルが確立されている。
やがて、現在までつながる本格的なお好み焼き産業は、戦後の大阪が舞台となる。昭和21(1946)年、大阪市西区玉出で創業した、ぼてっと返して、ぢゅうというおいしそうな音がするところから屋号を「ぼてぢゅう」にした西野 勝氏の功績は大きい。現在「ぼてぢゅう」、「総ぼて(ぼてぢゅう総本家)」、「大阪ぼてぢゅう」の3社に分かれているが、最初に東京進出を果たしたのが、(株)大阪フードの「ぼてぢゅう」である。昭和41(1966)年渋谷に進出し、関西の郷土料理が企業ベースにのるきっかけを作ったといえよう。