株式会社 姫野精工所
【大伴家持の越中守時代】
『続日本紀』によれば、大伴家持は天平18年(西暦746年)6月21日、宮内少輔から越中国守に遷任されています。二十代最後の年も半ばを過ぎようとする頃でした。
 越中赴任というと、ひなびた僻地への左遷といったイメージを想い浮かべる方が多いかも知れませんが、実状は決してそのようなものではありませんでした。
 当時の越中国は、今で言えば富山県に能登半島を併せた大きな国でした。万葉集を見ると、目(さかん。国司の四等官)が2名いたことが知られ、官制上は大国(諸国を4等級に分けたうちの最上級)に近い扱いを受けていたと判ります。
          越中図
 この頃聖武天皇は東大寺建造を悲願とされていましたが、その費用に充てるため、越前や越中を中心に広大な墾田を開発する計画がありました。農作の促進を最大の職務とする国守に対しては、それだけ期待するところも大きかったはずです。
 経済面ばかりでなく、軍事的・外交的にも越中は律令国家における重要な位置を占めていました。
 当時、まだ出羽国(ほぼ現在の秋田・山形両県にあたる)・陸奥国(同じく福島・宮城・岩手・青森県)は完全には律令体制下に組み込まれていませんでした。越中の隣国である越後国(同じく新潟県)にしても、少なくとも元明天皇の頃まではいわゆる「化外の地」であったように見えます。従ってこうした国々の周辺諸国は対蝦夷戦略上の重要拠点としての意味を帯びていたのです。
 しかも、日本海に突き出た半島と長大な海岸線を有する越中国は、海外諸国に対する防衞上から言っても枢要な地域でした。

【大伴宿禰家持(おおとものすくねやかもち)略伝】

前略
 745(天平17)年1.7、正六位上より従五位下に昇叙される。746(天平18)年1月、元正上皇の御在所での肆宴に参席し、応詔歌を作る(17/3926)。同年3.10、宮内少輔に任じられるが、わずか3か月後の6.21には越中守に遷任され、7月、越中へ向け旅立つ。8.7、国守館で宴が催され、掾大伴池主・大目秦忌寸八千嶋らが参席。同年9月、弟書持の死を知り、哀傷歌を詠む(17/3957〜3959)。この年以降、天平宝字2年1月の巻末歌に至るまで、万葉集は家持の歌日記の体裁をとる。
 747(天平19)年2月から3月にかけて病臥し、これをきっかけとして大伴池主とさかんに歌を贈答するようになる。病が癒えると「二上山の賦」(17/3985〜3987)、「布勢水海に遊覧の賦」(17/3991・3992)、「立山の賦」(17/4000〜4002)など意欲的な長歌を制作する。5月頃、税帳使として入京するが、この間に池主は越前掾に遷任され、久米広縄が新任の掾として来越した。
 748(天平20)年春、出挙のため越中国内を巡行し、各地で歌を詠む。この頃から、異郷の風土に接した新鮮な感動を伝える歌がしばしば見られるようになる。同年3月、諸兄より使者として田辺福麻呂が派遣され、歓待の宴を催す。4.21、元正上皇が崩御すると、翌年春まで作歌は途絶える。
 749(天平21)年3.15、越前掾池主より贈られた歌に報贈する(18/4076〜4079)。同年4.1、聖武天皇は東大寺に行幸し、盧舎那仏像に黄金産出を報告したが、この際、大伴・佐伯氏の言立て「海行かば…」を引用して両氏を「内の兵(いくさ)」と称賛し、家持は多くの同族と共に従五位上に昇叙される。5月、東大寺占墾地使として僧平栄が越中を訪れる。この頃から創作は再び活発化し、「陸奥国より黄金出せる詔書を賀す歌」(18/4094〜4097)など多くの力作を矢継ぎ早に作る。
 同年7.2、聖武天皇は譲位して皇太子阿倍内親王が即位する(孝謙天皇)。この頃家持は大帳使として再び帰京し、10月頃まで滞在。越中に戻る際には妻の大嬢を伴ったらしく、翌750(天平勝宝2)年2月の「砺波郡多治比部北里の家にして作る歌」(18/4138)からは、国守館に妻を残してきたことが窺える。同年3月初めには「春苑桃李の歌」(18/4139・40)など、越中時代のピークをなす秀歌を次々に生み出す。5月、聟の南右大臣(豊成)家の藤原二郎(継縄)の母の死の報せを受け、挽歌を作る(18/4214〜4216)。
 751(天平勝宝3)年7.17、少納言に遷任され(19/4248題詞)、足掛け6年にわたった越中生活に別れを告げる。8.5、京へ旅立ち、旅中、橘卿(諸兄)を言祝ぐ歌を作る(19/4256)。帰京後の10月、左大弁紀飯麻呂の家での宴に臨席(18/4259)。以後、翌年秋まで1年足らず作歌を欠く。
後略

 越中時代の家持歌日記の核をなしているのは、あくまでも文人としての風雅な暮らしであり、私的な宴や遊覧、友との交遊・書簡の贈答、また折に触れての風物詠といったものなのです。
 そうした中で一際目を引かれるものに、国府近くの景勝地へ遊覧に行った折の詠作があります。日帰りで遊びに行ける範囲には、布勢水海(ふせのうみ)、渋谿の崎、奈呉の江といった、後世歌枕として都人の憧憬を誘った(その功績が主として家持にあったことは言うを俟ちません)名勝が少なくありませんでした。
渋谿の崎 富山県高岡市雨晴海岸

国府周辺図
越中国府周辺図 布勢水海の範囲は大雑把な推定です。

 家持がことに愛したのは、国庁の北西1里ほどの距離にあった布勢水海であったと見え、越中滞在中四度にわたって遊覧詠を残しています。

布勢の海に船うけすゑて 沖へ漕ぎ辺に漕ぎ見れば
渚にはあぢ群(むら)騒き 島廻(しまみ)には木末(こぬれ)花咲き
ここばくも見のさやけきか...(巻十七 3991)

(訳)布勢の水海に船を浮かべて、沖へ漕ぎ出たり、岸辺に漕ぎ寄せたりして眺めて見ると、水際ではアジガモの群が賑やかに集まり、島の周囲では梢に花が咲き、これは何とまあ鮮やかな眺めであることよ...

氷見市宮田
氷見市宮田付近の池 布勢水海の名残の一つ

 こうした遊覧の折にも、家持の心にはしばしば都への慕情が萌し、時として抑えきれなくなったようです。

 水門(みなと)風さむく吹くらし奈呉の江に嬬(つま)呼び交はし鶴(たづ)さはに鳴く(巻十七 4018)

(訳)河口の風が寒く吹きつけるらしい。奈呉の江では、連れ合いを呼び合って鶴があちこちで盛んに鳴いている。
 越の海の信濃の浜をゆき暮らし長き春日も忘れて思へや(巻十七 4020)

(訳)越の海に沿った信濃の浜を一日歩き暮らしながら、こんな永い春の日でも、一刻として都の家族を忘れることなどありはしない。

氷見市島尾
氷見市島尾の海岸(信濃の浜は所在未詳)

 上は、天平20年正月29日に詠まれた4首のうちの2首。鶴の鳴き交わす声は、都に残してきた妻に対する恋慕の情の暗喩になっています。前年中、歌友池主が越前掾に転任して越中を離れてしまったこともあり、この頃家持の歌は孤独の陰影を濃くしますが、越中の風光は何よりの慰めとなったに違いありません。
大伴氏系図
spacer リンク:ページの先頭へ
Himeno Precision Works, Inc.
株式会社 姫野精工所
【氷見の万葉歌碑】
 天平18年(746)から天平勝宝3年(751)までの5年間、越中国守として赴任した大伴家持は当時29歳〜34歳の青年期。その在任中に、数々の歌を詠んでおり、万葉集収録の4516首のうち約480首が家持の歌とされていますが、そのうちの224首が越中時代に詠まれた歌です。また家持と家持をめぐる人々が越中をテーマとして詠んだ歌は95首ありますが、このうち氷見の地名にかかわる歌は32首にのぼります。なかでも国府から近い「布勢の水海」や、英遠の浦、比美の江、多胡の浦、松田江の長浜などの美しい景観は、ことのほか気にいったようで、氷見の歌枕(歌に詠まれた名所)の多さが、それを物語っています。
現在、氷見市の各地には、その名残として18の“万葉関係碑”が建てられており、万葉の心を今に伝えています。
@布施 布施神社
万葉時代の「布勢の水海」の中に位置していたと言い伝えられる布勢の円山(ふせのまるやま/標高20m)は、現在、出崎か田の中の小山とする説が有力です。その丘に建つのが、延喜式内の古社・布勢神社で、祭神は、崇神天皇10年(紀元前88年)北陸道鎮撫将軍として派遣された四道将軍の一人、大彦命です。その境内左側の茂みに、享和2年(1802)に建てられた「大伴家持卿遊覧之地」と刻まれた石碑があります。裏面の撰文によると、題字は正二位権大納言花山藤公。万葉関係の碑としては富山県内最古のものです。
A下田子 藤波神社
(意)藤の花が美しく咲き、影がうつる湖の底までも清く澄んでいるので、水の底に沈んでいる石でさえも珠かと見誤るほどだ。
初夏、うす紫の藤の老樹を真上にいただく鳥居をくぐり、白藤の花房を横目に石段をのぼると、本殿左後に、本居宣長の曾孫・本居豊穎(もとおりとよかい)の筆になる万葉仮名で刻まれた歌碑があります。また題字は巌谷修(貴族院議員)の筆による隷書で「大伴家持卿歌碑」と書かれています。なお、佐阿弥安清(さあみやすきよ)によってつくられたといわれる幻想的な謡曲「藤」は、この田子の藤が主題となっていることは、よく知られています。
B床鍋 臼が峰
(意)志乎路からまっすぐに山道を越えてくると、朝の羽咋の海はいかにも穏やかである。この海を漕ぎ渡って行く船や櫓があればいいのだが…。
志乎路(しをぢ)は、氷見から能登の羽咋へ通じた峠道。源平の古戦場であり、江戸時代は御上使巡見の要路でもありました。「志乎路から直越え来れば〜」の歌は、家持が政務(出挙のため)でこの峠を通ったときに詠んだものです。ルートとしては、小久米−床鍋−臼が峰−深谷−下石−志雄と考えられており、床鍋からのぼりつめた頂上近くに、自然石でできた歌碑(松村謙三筆)があります。また標高270mの頂上には、流罪の旅の途中ここに至ったと伝えられる親鸞聖人の銅像が建っています。
C阿尾 阿尾城跡登り口
(意)英遠の浦に打ち寄せる白波は、ますます高くなり、しきりに打ち寄せてくる。これはやはり東風が強く吹くためだろうか。
氷見市街北端の海岸に突き出すようにそそり立つ断崖絶壁があり、この一帯がかつて“英遠の浦”(あおのうら)と呼ばれていました。断崖の岬には、天正年間に菊池氏が居城したという阿尾城跡があり、ここからは能登方面や北アルプス山脈も遠望する雄大な景観が望めます。この城跡の登り口右手に、大伴家持の“英遠の浦に寄する白波〜”が刻まれた自然石の歌碑が建っています。(氷見市制施行30周年記念の建碑)
D布施 御影社
(意)明日眺めようという布勢の海辺に咲き匂う藤の花に、ほととぎすが来て鳴かないで、せっかくの花をむなしく散らしてしまうのではなかろうかと気がかりです。
布勢の水海跡にある小丘陵、布勢の円山の頂上に延喜式内社・布勢神社があります。その社殿裏の松林に建つのが、大伴家持を祭った「御影社」。現在は、鳥居が建ち、前口90cm、奥行120cmの流造の社殿になっていますが、もとは建物前口3尺、奥行3尺の小さな祠で、大伴家持を祭った全国に数少ない社であることから、昔から、アララギ派の歌人・土屋文明をはじめ、万葉に心よせる人々が各地から訪れています。
spacer リンク:ページの先頭へ
Himeno Precision Works, Inc.
株式会社 姫野精工所
【家持を祀る神社】
御影社
富山県氷見市布勢神社
旧御影社
富山県氷見市布勢神社
大伴神社
高岡市伏木 気多神社内
spacer リンク:ページの先頭へ
Himeno Precision Works, Inc.
株式会社 姫野精工所
【大伴家持像】
 三十六歌仙の一人であり、百人一首にも入集しているため、歌仙絵としての家持像は数限りなく描かれてきました。もっとも、同時代の肖像や容姿についての記録は一切残っていないので、家持がどんな顔や背格好をしていたのか、実際のところは全く不明です。
彫像はそれ程多くはないでしょう。越中国庁の所在地であった富山県高岡市には、JR高岡駅前と二上山山頂の二箇所に銅像が建っています。
                    
大伴家持像
富山県高岡市 高岡駅前
大伴家持像
富山県高岡市二上山頂
spacer リンク:ページの先頭へ

氷見線各駅メニューへ 氷見観光案内へ 氷見へのアクセスへ 氷見海岸フォトギャラリーへ

Himeno Precision Works, Inc.
氷見線各駅停車トップへ戻る 氷見線各駅停車トップへ